マカロニ・ウェスタンを知る!
今回のテーマは「マカロニ・ウェスタン」について、個人的な考察なども盛り込んで色々な視点から解説を行い、不動の人気を誇るイタリア製西部劇(以下、マカロニ)の魅力に迫りつつ、その影の部分もついでに暴きたいと思う。
…ん?全然マイナー映画じゃないって?
少々お待ち下さい。何故マカロニがマイナーなのかは後程説明致します。
マカロニ・ウェスタンのあらまし
イタリア資本で製作され、主に本国イタリアやドイツ、またはスペインやポルトガルといった、南欧各所で製作された西部劇。
御存じ、通称「マカロニ・ウェスタン」。硝煙の臭いと砂埃が漂う街に、現れる流浪のガンマン。ド派手な銃撃戦、そして雑じり合う目線が火花を散らす決斗。様々な因縁、忘れえぬ暗い過去。
あえて長回しを多用し、目元や表情のクローズアップで緊張感を高め、脳裏にこびりつくユニークな音楽と雄大な自然を背景に、男達の裏切りや、あるいは結託を通して揺れる人間模様が焙り出される。
特に
「荒野の用心棒(A Fistfull of Dollars.'64 伊)」
「夕陽のガンマン(For A Few Dollars More.'65 伊)」
「続・夕陽のガンマン(The Good,Bad And TheUgly.'66 伊)」
の「ドル箱三部作($s-trilogy)」を生み出したセルジオ・レオーネ監督は、偉大なる先駆者として「マカロニ・ウェスタンの父」と謳われる事も。
そもそもイタリアで活発に作られた西部劇を指す呼称は様々だ。元ネタの提供元(?)である米国では、これらをひっくるめて「スパゲティ・ウェスタン(Spaghetti-western)」と呼んでいたそうである。
一方、我々に馴染み深いマカロニ・ウェスタンという呼び名の発祥は、これは「ドル箱三部作」が日本で配給された当時、淀川長治先生が上記に対し「スパゲティでは細くて貧弱そうだ」という印象を覚えた為、マカロニに変更。和製英語であるこの呼び名が現在まで浸透した歴史がある。
コレは日本で発祥した後、いくつかのアジア圏でも通ずるぐらいにはメジャーになる訳だが当然、米国人には通じない。 というか上記のスパゲティ・ウェスタンも米国内でしか通じてない。
欧州では
「イタリア西部劇(Von Italien-WestlicherFilm)」
あるいは単に
「ユーロ西部劇(Euro-WestlicherFilm)」
の呼称がメジャーなようだ。このギャップは一体どこから来るのか?実は上記のマカロニ、スパゲティは「蔑称」の側面もあり、「駄作」の烙印を押し付けられたマカロニが、マイナージャンルとして米国劇場から干されてしまう憂い歴史の始まりだった。
ココがダメだよ!マカロニ・ウェスタン!!
これらが米国へと渡った際、多くの作品は歓迎される所か痛烈にバッシングを受け、銀幕から干されるという憂き目にあう事となる。淀川長治先生が名付け親となり、日本で広まったマカロニ・ウェスタンの通称も実は『マカロニ=空洞で中身が無い』という事を示す暗喩だったのでは?そんなウワサまである。
何でこうも批判が相次いだのか?かなり強引ながらも当時の米国人の心境を例えるなら…
日本かぶれな人「Hey!Dude! You know this?」
日本人「はい。なんでしょうか?」
日本かぶれな人「実はアメリカで本格現代ジェダイ劇が流行ってるんだ!」
日本人「存じません。題名は何と言うので?」
日本かぶれな人「It is NINJA-SLAYER!!!」
日本人「(;´Д`)ノマッテ…」
…的な反応に近い物があったのかもしれない。
これだけでは訳ワカランと思うのでもう少し具体的に米国人に拒絶された
確たる根拠になる駄目ポイントを掘り起こしてみよう。
さて、ここまで色々論って来た訳だが、主に批判を集めた最大の要因は
模倣による粗製濫造
コレに尽きる。
米国ではイマイチな反応だった「ドル箱三部作」。しかしながらレオーネ監督の絵画のように緻密な構成、表情を汲み取るアップ、独特な空気感を醸し出す長回し、男同士の薄暗い絆にスポットを当てたドラマは、ここ日本やユーロ圏でしっかりと評価され、熱烈に歓迎される事となった。
こうして、三部作は文字通り大金となったのだ。するとすかさず二匹目のドジョウならぬ、新たなゴールドラッシュを目指して、レオーネ監督の巧みなレイアウトや撮影技法など無視し、上辺だけに着目した乱雑な模倣品が次々と製作された。
結局、業界は急速なマンネリズムに襲われしまい上記のような、変な銃器やトリッキーな撃ち合いでテコ入れを行うも息切れ。希少な鉱脈を掘り当て、にわかに景気が沸き立つもそれが尽きるとたちまち荒み、ゴーストタウンと化し投棄された街のようにたった十数年の間にマカロニ・ウェスタンは衰退してしまったのだった。
西部に渦巻く賛否両論
その後、アメリカ本国でもマカロニの「味」が見直され、ようやく正しい評価を賜り、様々な作品が名作として認知される事となる。しかし、マカロニ・ウェスタンは今でも賛否が分かれるジャンル。
ニンジャスレイヤーをネタとして楽しむならまだしも
「ドウモ=ニホンジンサン!コレは現代忍者のバイブルデス!読め!!」
とガチでレコメンドされて「アッハイ」と承諾引いてしまうように、当時のアメリカでは
「清く強く、自由で正しい西部のカウボーイこそ銀幕に必要」
というバイアスがとても強かった為、悪辣過ぎるマカロニ・ウェスタンの主人公や登場人物に対しては、拒絶感が凄まじかったのではないか。
例えば「大草原の小さな家」の頼れる父フレディ、あるいは貴方の好きな少年漫画、20時~21時のスポ根ドラマの主人公が突如として
身なりを汚く乱し、自分の都合や
金目の為なら殺人や私刑すら躊躇わない
としたら如何だろうか?たぶん眼も当てられない事だろう。
この当時としては斬新過ぎたダーティヒーローの顔を観て「こんなの西部劇じゃないよ…」というすっきりしない感覚こそが、当時多くの米国人が抱いた、率直な感想なのではないかと個人的に考えている。
それと演出の問題。ココが最も賛否が分かれる部分。
多分、西部劇見た事無い人がマカロニ・ウェスタンに抱くイメージは
- 浪人ガンマン
- 街から街へふらふら
- たまに喧嘩と撃ち合い
- ひたすら飲酒
- 色々因縁
- 決闘⇒長回し⇒顔面UP
- なんだかんだで一件落着
- 背中だけ写して消え去るカット
であり長回しを多用し、漠然としたまま終幕する演出から「退屈そう」という偏見を持ってたりする。
実際、レオーネ監督のカット割りより長回しを重視するスタイルに対し、イーストウッド自身も疑問を抱いていた事を「夕陽のガンマン」に寄せたインタビューで語っている。
この独特の長回しを「熱い風で茹だる西部の空気」と観るか、あるいは「単なる冗長さ」と捉えるのか。
漠然とした終幕も「誰も先を見通せない過酷な辺境開拓の雰囲気」と観るか、
あるいは「打ち切りEND」と捉えるかだけでも大きく印象が変わると思う。
マカロニ・ウェスタンの遺伝子
プロットはもちろんの事、主人公の個性、演出や構成など、独自性がかなり強い「マカロニ式」とも言える技法。
・TVドラマ
後に各国クリエイターが、その後追いをする事となる。日本で言うと「必殺シリーズ」。
役者の「影」を強く印象付ける独特のライティングや、悪逆の限りを尽くす悪党に対して、残酷な仕事や仕掛け、更にテーマ曲を印象的に流し緊張感を高める等、マカロニによく似た手法が取り入れられている。
・アメリカ映画
またアメリカでもマカロニ式が見直される事で、それまでと違ったアプローチの西部劇が作られる運びとなった。
ジョージ・ロイ・ヒル監督の
「明日に向かって撃て!」(ButchCassidy and The SudanceKID '69 米)
クリント・イーストウッド自身が「最後の西部劇」とし、師と仰ぐドン・シーゲル、セルジオ・レオーネの両名に掲げた
「許されざる物」(Unforgivin '92 米)
銃撃と血飛沫ほとばしるビデオ屋オタ番長、Q=T監督作!手を斬り裂いてもアドリブでサイコ野郎を演じきった、ディカプリオ狂気の顔面!フランコ・ネロの登場も嬉しい!
「ジャンゴ-繋がれざる物-」(DJANGO-Unchained- '12 米)
更に日本のマンガ家、内藤泰弘さんや広江礼威さんの代表作には
マカロニを彷彿させるような超兵器が登場している。
まとめ
やや駆け足気味だが、マカロニ・ウェスタンのコンセプト。そして、その歴史やかつての評価、更にその後の系譜をまとめてみた。
ホントは自分が所持してるソフトの内容をいくつかピックアップして参照したかったのだが、記事が長くなったので今回は割愛。
「お前の与太話はどーでもいい!!それよりミシンガンの詳細はよ!!」
という方へ、申し訳ありませんorz
ソフトについてはまた機会があれば記事にまとめたい。もしかしたら作品毎に更に個別レビュー&解説ページを作成するかも。
その時にまた、お会いしましょう!
サヨナラ…サヨナラ…サヨナラ…ノシ!